로그인診療所を出ると、学校へ向かう道すがら、次々と声をかけられた。
「梓ちゃん、体の調子はどうじゃった?」八百屋の前に立つおばあさんが手を振る。
「先生は優しい方じゃろう? 何か困ったことがあったらいつでも言いんさいよ」
雑貨店の店主が顔を出す。
「お母さんの弓子さんにそっくりじゃねえ。きっと元気に育ってくれるとよ」
通りがかりの女性が籠を抱えたまま立ち止まる。
一人、また一人と声をかけてくる村人たち。みんな笑顔で、親切で、梓のことを本当に気にかけてくれている。その温かさは確かで、嘘ではなかった。
だからこそ、胸の奥に小さなざわめきが残る。昨日の朝のことを思い出す。玄関に置かれていた籠。菜っ葉と茄子、それから米袋。葉の裏にはまだ露が残り、泥も乾ききっていなかった。誰かが、自分が目覚めるよりもずっと前に手を動かしてくれていた。その重みは確かで、込められた労力も気持ちも、籠を持ち上げただけで手のひらに伝わってきた。
母の古い日記にあった一文を思い出す。
――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。
なぜだろう。この親切は、まるで決められた手順のように感じられる。頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から静かに決められてしまうような気がした。
◆
学校に着くと、昨日の友人たちが手を振っていた。
「あずさちゃん、おはよう! 検診はどうやったと?」
あゆみが小走りに駆け寄り、両手で梓の手をぎゅっと握ってくる。その体温がじかに伝わって、梓の頬がほんのり暖まった。あゆみの手は小さくて、けれど思いのほか力強くて、握り返さずにはいられなかった。
「先生、やさしかったじゃろ? なんか困っとったら、すぐ言うてな」
美穂が委員長らしい調子で尋ねながら、何の躊躇もなく鞄からハンカチを取り出して、梓の袖についた埃をそっと払ってくれる。その手つきは慣れたもので、きっと普段から誰かの世話を焼いているのだろう。
梓は「ありがとう」と小さく呟いた。「吉川先生は、ええ人とよ。僕も風邪んとき、すごう親切にしてもろたけぇな」
健太は分厚い本を抱えながら言って、ためらいがちに文庫本を差し出した。
「これ……東京の作家の短編集。好きなんや。もしよければ、読んでみんさい」
受け取ってページをめくると、インクの匂いが懐かしく立ち上る。胸の奥が、温まってゆく。
「ありがとう」
梓が小さな声で礼を言うと、健太の耳は見る見る赤くなった。その様子があまりにも純粋で、梓は思わず微笑んでしまう。
あゆみはそんな二人を見て「わたしも何か貸したい!」と言いながら、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「これ、かわいい付箋がいっぱい付いとるんよ。勉強のとき便利とよ!」
表紙に散りばめられた小さな花柄の付箋が教室の光を受けてきらめいて、あゆみの笑顔も弾んだ。
その輪の中に自分もいる。梓はふと気づいて、胸の奥がじんと熱くなった。東京の生活で凍り付いていた心臓が、少しずつ、本当に少しずつ動き出している。そのことがこんなにも嬉しいなんて、思ってもみなかった。
◆
午後の授業は、学校から少し下った川べりの共同農地で行われた。
都会の学校ではまずない、農業体験の授業だ。山の斜面を段々に切り拓いた畑一面に、背の高いトウモロコシが整然と並び、胡瓜の棚が風に静かに揺れている。赤く熟れたトマトが鈴なりになり、草いきれと青い匂いが混じり合っていた。
初等部から高等部まで、全校生徒三十人ほどが一斉に集まる。教師たちが列を整え、農家の藤吉さんが朗らかに声を響かせた。
「おう、今日はわしの畑でうんと働いて、しっかり汗かいて帰りんさい!」
◆
畑の前に教師たちが並んで声を上げる。
最初に声を張ったのは、初等部の松井先生だった。麦わら帽子の下で丸眼鏡が光り、穏やかに手を振る。「ほれ、並んで並んで! 今日はええ天気じゃけぇ、ええ実習になるで」
その優しい調子に、子どもたちも自然と笑顔で列を作る。
隣で、大槻先生が胸を張った。日に焼けた腕を大きく振り上げ、運動場の指導者のような勢いで声を響かせる。「列は崩さんと! 畝は真っ直ぐ歩きんさい!」
その迫力に、ふざけていた中等部の子たちも思わず背筋を伸ばした。
最後に口を開いたのは、高等部の藤森先生だった。白髪まじりの頭を少し傾け、黒縁の眼鏡越しに静かに生徒を見渡す。「……説明は一度しか言わんからな」
低く抑えた声に、笑い声まで吸い込まれるように消えていった。
そしてもう一人、村の農家から指導に来た藤吉さん。「わしは藤吉言うてな。新ジャガ掘りなら任せとけ! ほれ、腰据えて掘ったら、ごろごろ出てくるけぇ! 小さくても甘うて美味しいんじゃ!」
四十代半ば、日に焼けた皮膚は革のように分厚く、腕には血管が浮いている。腰には手ぬぐいを差し込み、古びた麦藁帽子のつばをくいと上げ、歯を見せて笑った。
都会ではついぞ体験することのない、土に近い授業。梓は初めての体験に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
◆
「見て! おっきい!」
初等部の子どもたちはトウモロコシの列へ。背より高い葉をかき分けて、ずっしり実った穂を抱きしめると歓声が上がった。黄色い粒が陽に光り、抱えた子の顔も輝いている。
中等部は胡瓜の棚へ。細い指で蔓をつまみ、ぽきんと折れると青い匂いが漂った。
「冷たうて、しゃきしゃきしとるじゃろ!」
その場でかじり、滴る水分を笑顔でぬぐう声が重なった。
赤く熟れたトマトも籠に盛られ、宝石のように光っている。夏の陽射しに照らされ、生徒たちは汗を流しながらも楽しそうに収穫作業に励んでいく。
◆
梓たち高等部は新ジャガ掘りを任された。
「梓ちゃん、こっち一緒にやろうと!」
あゆみが軍手をはめた手を引き、無邪気に笑いながら泥をはね飛ばす。
「見て見て、競争やで!」
顔まで泥を飛ばして、屈託なく叫ぶ。その笑顔があまりにも眩しくて、梓も思わず笑い声をあげてしまった。
「こっち側は重たいじゃろ? 僕が支えるけぇ」
健太は額に汗をにじませ、図鑑で覚えた知識を口にしながら、不器用にスコップを支えてくれる。
「新ジャガは小さいけど、本で読んだより甘いんじゃ!」
「梓ちゃん、こっちに力をかけてな。……そうそう、上手になっとるとよ」
美穂は頼もしい声で指示を出し、掘り出した小ぶりな芋を泥からきれいに拭って、籠に丁寧に並べていく。その世話焼きが妙に嬉しくて、梓の胸が温かくなった。
気づけば、自分の頬や髪まで泥がついている。あゆみがわざと泥水を跳ねかけ、「ひゃー!」と叫び、周りは大笑い。梓もとうとう声をあげて笑った。
東京にいた頃にはなかった笑い方。胸の奥が熱くて、涙が出そうなくらい楽しい。
少し離れた場所で、清音が静かにその光景を見守っていた。いつもの無表情に見える顔が、ほんのわずかに和らいでいる。風に揺れる髪越しの瞳は、まるで梓の笑い声を胸にしまうように、静かに光っていた。
泥だらけの手で額の汗を拭ったとき、清音がそっと近づいてきた。
「……汚れてる」
白いハンカチを取り出し、梓の頬についた泥を優しくぬぐってくれる。冷たい布越しに感じる指の感触に、梓の心臓がトクンとひとつ鳴った。
「ありがとう……」
赤面するのを自覚して、さらに赤くなっていく自分の頬を感じながら、震える声で礼を言う。清音はただ小さく微笑んだ。梓は視線を逸らせずにいた。彼女の指先が触れるたび、心臓が跳ねて呼吸が浅くなる。笑い声に混じって、胸の奥で別の熱がひそかに燃えていた。
少し離れた場所で、あゆみがその光景を見つめていた。手にしたスコップが、いつの間にか止まっている。
「清音、梓ちゃんばっかり構うじゃないと」
あゆみの声は明るかったが、どこか棘を含んでいた。美穂と健太は気づかない程度の、微かな変化だった。
「みんなで一緒に作業したほうが楽しいとよ」
そう言いながら、あゆみは無理に笑顔を作る。でも、その目だけは笑っていなかった。
◆
三つめの穴を掘ったとき――
梓の指先が、冷たいものに触れた。土の中で、白い球体が覗いている。それは瞬きもせず、赤い筋を走らせながら、じっとこちらを見つめていた。
――それは、人の眼球に見えた。
心臓が一瞬、音を忘れる。
「……清音」
隣で黙々と草をむしっていた清音に、梓は震え声で呼びかけた。
「なに?」
清音は平然と覗き込み、ふっと笑った。
「根っこよ。ときどき人の顔に見えることがあるの。大丈夫、驚くことじゃないわ」
言われて見直すと、そこにはただの小さな新ジャガの塊があった。切り裂かれた根がにゅるりと伸びているだけ。
背後であゆみが「見て! こんな大きいの出たとよ!」と叫び、健太が図鑑を広げて「やっぱり本で読んだより大きいじゃろ」と品種を確かめ、美穂が土を払って籠に並べていく。笑い声が重なり、梓の胸も再び温かく揺れた。
◆
籠いっぱいの野菜を抱えて、子どもたちの笑い声が響く。トマトをかじれば赤い果汁が唇を濡らし、胡瓜は驚くほどみずみずしい。
「冷たうてうまいじゃろ!」
あゆみが声を張り、健太も「やっぱ本で読んだ味よりずっとすごいとよ」と笑い、美穂も「みんなようけ頑張ったけぇな」と肩を叩く。
梓はその輪の中で息を弾ませながら笑った。
――この村で、自分はもう一人ではない。
けれど土の中で一瞬見た白い球体の冷たさだけは、指先にぬめりのように残り続けていた。
吉川は壁に手をついたまま、荒い息を吐く。 診察室――陽一の遺体と、俊夫。 正気を失ったように沙織が哄笑をあげた。「あは……あはははは……俊夫さん……あなた、陽一を……」 喉がひきつり、声が掠れる。 床を掴む指先は血に滑り、赤黒い染みを広げていく。 目を逸らす。 見てはいけない。医師として、人として、見なければならないのに。 ――診察室には地獄が広がっていた。 あまりの光景に棒立ちになっていた吉川は、診療所の扉が開かれたことに気がつかなかった。 そして気がつくと、村の人々と清音がそこにいた。 千鶴が床に座り込んでいる。 顔は蒼白で、震える手で口を押さえていた。 梓は――玄関の方を見つめたまま、動けずにいる。 診療所に、重い沈黙が満ちた。 その時、清音が振り返った。 セーラー服の裾が揺れ、月明かりが彼女の横顔を照らす。 その表情は――何も映していなかった。「今日のことは、忘れなさい」 声が響いた。 優しく、穏やかで、そして――抗えない。 吉川の視界が揺れた。「……え?」 言葉が出ない。 喉が詰まる。 清音の瞳が、光った。 淡く、冷たく、月光を宿したように。 その光が――吉川の目に刺さる。 膝から、力が抜けた。 壁に手をついていたのに、支えきれない。 体が傾く。「記録……」 声が掠れる。「私が……佐藤さん……皆……」 何を言っているのか、自分でも分からなくなる。 視界がぼやける。 清音の姿が二重に見える。 ――ああ、これは。 吉川の頭の片隅で、医師としての知識が囁いた。 ――催眠術に似ている。 ――いや、それ以上の何かだ。 抗おうとする。 足に力を込める。 でも、体が言うことを聞かない。「――っ」 床に、膝をついた。 畳の冷たさが膝を刺す。 その感触だけが、やけにはっきりしていた。 視界の端で、千鶴が倒れるのが見えた。 何も言わず、何も抵抗せず。 ただ静かに目を閉じて、横たわる。 ――千鶴さん……? 声にならない。 吉川の意識が、霞んでいく。 その時――声が聞こえた。「清音……どうして?」 梓の声だ。 震えている。 でも――はっきりしている。 吉川は必死に顔を上げた。 視界がぼやける中で、梓の姿が見える。 立っている。 まだ、立っている。 ――
診療所の白い天井がぼんやりと視界に映っていた。 薬草と消毒薬の匂いが鼻をくすぐる。廃屋の煤と湿気に満ちた空気とは違う、清潔で穏やかな匂い。 戸をくぐると、すぐに小さな土間があり、そこで靴を脱いで上がるようになっていた。以前もここに来たことがあるはずなのに、そのときは気が動転していて、ほとんど目に入らなかった。暗い廃屋から連れ出されたばかりの沙織には、その当たり前の所作だけで胸が震えた。自分たちはもう牢獄の中ではなく、人の暮らす場所に入ったのだ――そう思えたからだ。 上がり框を踏むと、そこは六畳ほどの待合室。壁際に古びた長椅子が二つ並び、低い机の上には色あせた雑誌や子供向けの絵本が積まれている。薬草と消毒薬の匂いが、煤と血の臭いに覆われていた鼻腔をじんわりと洗っていく。 正面の引き戸を開ければ診察室があり、木机と診療台が置かれ、窓際には乾燥させた薬草や薬瓶が整然と並んでいる。そのさらに奥には小さな倉庫が続き、薬品や器具がびっしりと詰め込まれているようだった。 待合室の脇からは細い廊下が伸びており、その奥に三台のベッドを並べた入院部屋がある。白布がかすかな灯りを反射し、静けさの中でひどく頼りなく浮かんで見えた。村人が長く寝泊まりできるように整えられた部屋なのだろうが、今はひどく心細く映る。 さらに廊下を進むと、吉川先生の住まいに続くらしい。居間兼寝室があり、裏口からは薬草畑に出られると聞いた。沙織はまだ足を踏み入れたことはなかったが、そこに灯る生活の匂いを想像して、胸の奥にかすかな温もりを覚えた。◆ 診療室で横になっている俊夫を見ながら、沙織は毛布に包まれた陽一を抱きしめ、ようやく息をついた。 腕の中で、息子の小さな体温が規則正しく脈打っている。その温もりを確かめるたび、胸の奥に安堵が広がる。 ――助かった。本当に、助かったのね。 吉川先生は手際よく俊夫の処置を続けていた。包帯を巻き直し、脈を取り、体温を確かめる。その一つ一つの動作が、まるで儀式のように丁寧で確実だった。「呼吸は安定しています。今は安静にさせましょう」 吉川先生の声は落ち着いていて、それだけで心が落ち着いた。 俊夫は診療台に横たわり、荒い息を繰り返している。顔色は悪く、汗が額を濡らしているが、それでも生きている。生きているだけで、今はそれでいい。「沙織さん、とりあえ
湿った畳の冷たさが、薄い部屋着越しに沙織の肌へ這い上がってくる。背に抱えた陽一の体温だけが、かろうじて自分を人間の世界につなぎ止めていた。 俊夫は柱に縛り付けられたまま、荒い息を吐いている。時折、喉の奥で呻くような声をあげ、そのたびに縄がぎしりと鳴った。目の焦点は合っていない。夫はもう自分を見ていない。沙織はその現実から目を逸らした。 固く結ばれた縄を、何度も解こうとしたが女の力では歯が立たず、沙織は陽一を抱きしめながら、俊夫の傍らで震えていることしかできなかった。 暗い。煤の匂いと湿気が重なり、息をするたび胸が痛む。窓も戸も閉ざされ、ここが牢であることを嫌というほど思い知らされる。 廃屋の外に、時折人の気配がする。きっと見張られているのだろう。気配がなくなる時もあるとはいえ、俊夫を置いてここから出ることも出来ない。 ――逃げられない。 頭の奥で、その言葉が何度も反響した。 陽一が小さく身じろぎした。泣き声を必死で抑えているのか、喉がかすかに震えている。母親の腕に縋りながら、熱い吐息が頬にかかる。その健気さが、沙織の胸を余計に締めつけた。 夜は深く、聞こえてくるのは獣の鳴き声と、夜の虫の音。沙織は震えながら耳を澄ます。 微かに人の声――外に気配があった。 砂利を踏む音ではない。見張りの者の動きとも違う。もっと遠く、けれど確かに人の会話。息を呑む。耳を澄ませる。心臓が跳ねる。 ……誰か。誰かが近づいてくる。 頭の奥で、必死に理性が制止する。呼んではならない。ここは禁域。外から来る者もまた、同じように飲み込まれてしまう。そう分かっているのに――。 陽一が震えた。小さな手が母の襟を掴み、おかあさん……とかすれた声を漏らす。その声が、理性の最後の糸を断ち切った。「……助けてっ!」 叫びは思ったより大きく、喉を焼くように迸った。闇に押し込められていた空気が一気に揺れ、戸の隙間に向かって迸る。 その瞬間、沙織は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。希望と恐怖がないまぜになり、体の芯まで震えが走る。 叫んだ声がまだ胸に残っているうちに、戸口の向こうで何かが動いた。 息を呑む。畳をかすかに震わせる足音。外の空気がかすかに流れ込み、湿りきった部屋に違う匂いが混じる。 次の瞬間、障子の隙間から白い光が差し込んだ。 小さな四角の中に、懐中電灯の鋭い
吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。 俊夫はよろめきながらも、歩き出す。「せ、先生? なんで? 俺は……?」「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」 朦朧としている俊夫に落ち着いた声をかけながら、吉川は歩き出す。「梓さんは、沙織さんたちを」「はい!」 梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」 梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。 沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。恐怖と安堵が混ざった表情で、震える手を梓の指に絡める。「……どうして……どうしてこんなことを……」「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」 沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。「おかあさん……」 小さな声が震える。梓がそっと背を支えると、陽一はびくびくと小さな体を預けながら、縛られていた柱の方を見た。「……おとうさん、だいじょうぶ?」 その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。そこに感謝と疲労、そして言葉にできない苦悩が混じった熱を残した。「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」 沙織は必死に声を絞り出し、息子の頭を撫でた。 その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。梓は無意識に立ち止まり、耳を澄ませる。足音は間を置いて近づき、やがて止まる。 吉川の目が一瞬だけ険しくなる。治療の手を止め、梓に短く囁いた。「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」 梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。しわの刻まれた表情は冷たい眼差しを湛えながら、どこか歪んだ微笑を浮かべている。 庄司の声が夜に低く響いた。「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」 そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。男たちの影が戸口に寄り、火の光が差し込
洞窟から戻る道の途中、雑草に紛れているが脇に分岐する小道が見えていた。その先には、古井戸の黒い輪郭がぽっかりと浮かんでいた。月明かりがその縁を銀で縁取るたび、梓は胸の奥を小さく締めつけられるような感覚を覚えた。「この先にある古井戸、少し気になりますね」「……はい、井戸の先にも何かあるみたいです」 清音に言われた言葉が、ふと蘇る。──古井戸には近づくな、と。何かを守るための境界線のように、彼女の中でその言葉が折り重なっていた。「調べてみたくもありますが……」 吉川の声を聞きながら、道の分かれ目を過ぎ、数歩進んだとき――夜の空気が一瞬、ざわついた。井戸の向こうから、切羽詰まった女性の声が鋭く響いた。「助けてっ!」 その叫びが夜気を震わせ、梓の胸が凍る。声は一度で終わらず、嗚咽と短い断末魔のように続いた。懐中電灯の光を握る手に力が入る。清音の言葉が、不意に耳の裏から囁かれた。──古井戸に近づくな、と。梓はその戒めを思い出しながらも、足を止めることはできなかった。 梓は古井戸の方向に目を向けた。吉川も同じく、暗闇の奥を見据えている。「先生、今のは!?」「ええ、聞こえました。あの声には聞き覚えがあります」 二人は迷うことなく、分かれ道に向かって駆け出した。 古井戸を横目に過ぎると、その先の暗い森の中に小さな建物の影が浮かび上がる。黒ずんだ屋根が月光に浮き、社務所の跡を残す廃屋だった。障子の一隙間から、暗がりのなかで揺れる小さな影が見え、かすかな音が漏れている。短く、途切れる嗚咽。子どもの泣き声だった。 梓の足が無意識に速まる。胸の中で、祠の板に刻まれた文字列がまた揺れた。〈この子は、普通に生きて〉――その殴り書きが、眼前の泣き声と重なる。 障子越しに揺れる影がもう一度見え、梓は無意識に駆け寄ろうとする。吉川が静かに後を追い、彼女の肩に軽く触れて速度を抑えた。彼の目は夜の光に冷たく光り、しかし表情には確かな理性があった。「落ち着いてください。様子を伺います」 吉川は低く言い、障子の隙間に懐中電灯を差し入れて中を覗き込む。光が畳に落ちた瞬間、そこに縛り付けられた人体の輪郭が浮かび上がった。男の体は柱に固定され、縄が何重にも巻かれている。筋が浮いた腕が痙攣し、唸り声が口から漏れていた。 吉川が低く囁いた。「梓さん、静かに。まずは状況を確かめな
板を写し終えたときだった。 洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。 ――ふう、ふう……。 低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。「……聞こえますか」「はい」 吉川の声は押し殺されていた。 梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。 耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。 意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。 梓は母の日記の最後の一文を思い出した。 ――「もう二度と戻らない」 背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。「先生……ここから先は……」 吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」 梓は頭を振った。「だめです……誰かが、見ている……」 その瞬間、背後から空気が揺れた。 暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。 ――覗かれている。 囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。 二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。 囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。 滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。 いや、肉のように、ではない。 それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。 ――ぐじゅ、ぐじゅ……。 甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。 梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。「下がってください!」 声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。 白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。 同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。 ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。「……これが……にくゑ……」 吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。 だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ
清音に案内されて、梓は坂道を上っていく。 たどり着いたのは、こぢんまりとした平屋。瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。 それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」 清音は柔らかく言葉を紡ぐ。 玄関の戸に手をかけた。重い戸がきいっと音を立てて開くと、畳の匂いがふわりと鼻を打った。 湿り気を帯びた青い匂いと、押し入れの奥からにじみ出てくる古い木の匂いが混ざり合って、東京のマンシ
胡瓜をくれた老婆に連れられて、梓は村長の家へ向かった。 村の中でもひときわ立派な平屋建ての家。高い石垣の上に広い敷地があって、黒光りする木の門がどっしりと構えている。他の家とは明らかに格が違う。 門の前まで来ると、老婆は立ち止まった。「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」 そう言って、胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと押すと、にこやかに手を振りながら帰っていってしまった。小さな後ろ姿は、あっという間に道の向こうに消えてしまった。 一人で残された梓は、重々しい門を見上げる。胸の奥でどきどきと心臓が騒いでいる。もうあとには引き返せない、そんな気配が
バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。 エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。 東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。 ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。「おや、新しい人じゃな」 いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲
少女はメモを執っていた。揺れ動くバスの座席で。一心不乱に。 スマホの画面を見ると「圏外」の文字が表示されている。これから向かう村は電波が通じていないと聞いていたが、もう圏外なんだ、と梓は画面の文字を見つめ、スマホをカバンにしまい込んだ。 膝の上で小さなメモ帳を開きながら、いつもならスマホでメモを取るところなのに、久しぶりにメモと鉛筆。でもこんな古いやり方も良いかも知れない、と梓は筆を走らせる。「山、薄墨色」「バスの音、お腹の中みたい」 思いついたことを鉛筆でちょこちょこ書きつけているが、手に力が入らなくて、文字がふらふらしてしまう。がたん、がたんと車体が揺れるたび、梓の頭も左右に